K ――さて、「幸福」の中身に関する牧口先生の考察を、簡単ではありますが、こうしてまとめをすることができました。そこで、最初にUさんが質問されたことに、話を移しましょう。
U 牧口先生はどうして、幸福というものを「財産」「善悪」「健康」という形で三つに分けて考察したという話ですね。
K はい。幸福というものは、それを実感する人によって内容が異なるものではあります。そのため、事細かに項目を設ければ、いくらでも幸福の内容を分類できてしまうでしょう。ただ、私たちがどのような現象について幸福を感じるのかということを考えると、三つにしか分類できないのです。
U どのような現象について……ですか。
K そうです。前に、幸福という概念の内容は、二つに分けることができる、という話をしましたが、覚えていますか?
U 確か、「個人的な幸福」と「社会的な幸福」ですね。
K ええ。先ず、「個人的な幸福」について説明しましょう。先ほど「健康」が幸福の基盤である、という話をしましたね。
U はい。健康でなければ、充実した生活を送ることはできませんから。
K そして、その前に「財産」も幸福の一部を表現したものである、という話もしました。
U 全部ではありませんが、無ければ無いで、生活に困るものですからね。
K よく考えてみてください。その二つは「幸福」という概念の中に含まれているのに、それぞれまったく違うものではありませんか?
U そういわれると、確かに随分違うものですね。
K 「健康」は主に私たちの身体や精神のことを指しているものです。一方、「財産」というのは私たちが生きていく上で必要であったり、便利であったりするもののことを指しているものです。ここで個人というものを考えたとき、「健康」はその個人の肉体的精神的な現象を指し、「財産」は個人としての生活自体の現象を指していると言うことができます。私たち個人にのみ関係ある現象は、このどちらかに振り分けることができるでしょう。そのため、「個人的な幸福」もこのように二つに分類され、個人にとって良いこと、うれしいこと、楽しいこと、素晴らしいことなどは、このどちらかに振り分けることができるのです。
U なるほど。では、残りのもうひとつが「善悪」であるのは、どうしてなのでしょうか?
K それは「善」が「社会的な幸福」を指しているからです。「社会的な幸福」というのは、主に他の存在との関わり合いの中で得られる幸福のことです。それが現象として現れてくると「善悪」という言葉で語られます。例えば、Uさんが富士山へ行き、そこでゴミをポイ捨てしたとしましょう。
U え~、私はそういうことをしませんよ!(笑)
K 例え話ですって。(笑) そうした行動をしたときに、「ああ、悪いことをしたな」と思いませんか?
U それは……まぁ、思うでしょうね。
K では、どうして「悪いことをしたな」と思うのでしょうか?
U う~ん、それは富士山の環境を悪化させるようなことをしたからだと思います。
K それでは、逆に富士山でゴミを拾って、しかるべきところへ捨てたとしましょう。そうした行動は「善いこと」と言われますが、どうして「善いこと」と思われるのでしょうか?
U やはり、富士山の環境を保全することをしたからでしょうね……あ、なるほど! 富士山の環境という「他の存在」に対して、私が行ったことについて、「善い」「悪い」と言われるわけですね。
K そういうことです。これは『第三章 教育目的と社会』で勉強することになりますが、「他の存在」との関わり合いというものが社会を形成しているものです。従って、「他の存在」に対して行った行動や、それから為されたことなどで感じる幸福が「社会的な幸福」となります。――以上をまとめてみますと……。
U 「個人的な幸福」は「健康」と「財産」の二つに分けることができ、「社会的な幸福」は「善悪」の「善」を指す。だから、幸福の分類は三つなのですね。
K その通りです。実を申しますと、この三つの分類はそのまま『第三編 価値論』に受け継がれるものなのですが……、そのときにまた触れることにしましょう。
<学習箇所>
創価教育学体系Ⅰ 第二編 教育目的論
第二章 教育の目的としての幸福(149~168項)
第三章 教育目的と社会(169~183項)